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本庄小学校の新着情報やお知らせ。
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2020/08/06new

本庄の歴史~本庄のうつりかわり⑬

Tweet ThisSend to Facebook | by:HP担当
 おはようございます。今日もさわやかな日本晴れで、元気にくまゼミが鳴いています。みなさんもせみに起されたんじゃないでしょうか。
 今日は、焼酎(しょうちゅう)、酢造りを紹介します。
 昔、青木や深江は焼酎の産地としても、地方にまで名前を知られていました。日本酒とは造り方がちがうので、味も風味もちがいますが、今では、日本酒に負けないくらい多くの人に飲まれているお酒です。
 一番さかんな時には、焼酎を造る家は約40軒もあり、生産高も年間に一升瓶25万本にもなりました。灘五郷の酒粕全部をその原料として使用したほどだったそうです。
 しかし、焼酎にかかる税が変わったため、もうからないようになり、しだいにやめる人が多くなりました。特に、青木、深江の焼酎は、主に大阪の天満(てんま)や伝法(でんぽう)などで味醂(みりん)を造る原料になっていたので、焼酎と味醂と両方に税をかけられたのが原因です。
 その後、大正7年(1918年)12月に朝日酒類株式会社ができ、焼酎、洋酒(ウィスキーなど)などの製造を開始するようになりました。
 現在、校区には青木2丁目に宝酒造灘工場があり、昭和27年から焼酎を造っています。
<明治のころの青木浜と酢の工場>


 明治25年(1892年)10月に笹田伝衛門という人が、青木の酒造家寺田市郎右衛門の酒蔵を買入れ、川島銀太郎という人が笹田伝衛門に代わって酢を造りました。これが今のマルカン酢の起こりです。生産高も年間50万本から、大正7年(1918年)ころには250万本にもなったということです。マルカンはもとは名古屋の会社ですが、酢の原料となる酒粕が、灘五郷なら手に入りやすいことや、酢を造るのに気候がよいという理由から、明治26年(1893年)、青木に本社工場を新しく造り、関西での酢を造る中心となりました。その後、酢だけでなく、ポン酢、みかんやぶどうを使った酢なども造っていましたが、昭和63年(1988年)、六甲アイランドに工場を移しました。その跡地にコーストアベニューが建ちました。
07:48
2020/08/05new

本庄の歴史~本庄のうつりかわり⑫

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 こんにちは。今日もいい天気ですね。学校の中庭では、くまぜみがいきおいよく鳴いています。
 さて、今日は酒造りのようすについてお話しします。
 もともと海の流れが速いところを灘といいますが、灘といえば、神戸市の灘区から西宮のあたりの海岸地帯のことをいいます。
 芦屋灘の岸辺といううのが灘辺となり灘となったようです。江戸時代には、敏馬(みるめ)あたりを境に東は上灘、西は下灘と分かれていました。また、上灘はさらに打出から住吉川までの東組、住吉川から東明までの中組、新在家から敏馬までの西組の3組に分かれていました。
 池田、伊丹や西宮が酒どころとして有名でしたが、江戸時代の中ごろになると宮水といわれる地下水、質の良い米、丹波杜氏(丹波地方から来た酒を造る職人)の優れた技術、また、船で江戸まで運ぶのに便利なことなどから、江戸へ運ばれた酒の中で半分以上が灘の酒といわれるくらいに酒造りが盛んになりました。
 明治19年(1886年)に西宮、今津も加わり、組合がつくられました。このときに下灘と上灘の西組を西郷、上灘中組を中郷、上灘東組を東郷とし、西宮郷、今津豪を加えて灘五郷というようになりました。
<灘五郷>

 
 その灘五郷の東郷にある本庄村の酒造りは、およそ270年前、享保年間(1716年~1736年)に青木の山形忠左衛門という人が始めたといわれています。天明6年(1786年)深江においても永田惣兵衛という人が酒造りを始めました。そのころは1年に一升瓶2千本くらいの生産にすぎませんでしたが、4代目のころには20万本も造るようになりました。
 青木、深江の2つの村の酒造りは、その後も盛んになり、嘉永(1848年~1855年)、安政(1855年~1860年)のころには青木では、年間一升瓶150万本、ついには200万本にもなりました。深江も同じように酒造りをする人が増えていきました。
 しかし、深江・青木では、大部分が足踏みによる精米(とれた米をついてぬかを取り白米にする)のため、酒のできがよくなかったといううことです。そのことから江戸での評判が悪くなり、商品の売れ行きが減っていきました。しかたなく地方へ売る努力をしたのですが、酒の税が増えたり、値段が下がったりsたことも重なり、酒造りをしている人は困ってきました。
 そこで、酒が腐りにくいように唐辛子をまぜたり、水を加えて酒の量を増やしたりして、必死にいろいろと試みたのですが、人気がなくなり、ついに破産して、地方に出ていく人が多くなったということです。
 明治29年(1896年)に酒にかかる税が改められ、一升瓶100本に対して20円(現在の40万円)となったので明治34年(1901年)、35年(1902年)ごろには青木で酒造りをする人はいなくなりました。深江は、数名の人が小さいながらも酒造りを続けていたそうです。主な酒の名前は神亀、銀正宗、祥瑞、管梅などがありました。
<昔の酒造りのようす>


 現在、校区には、宝酒造(松竹梅)、太田酒造(道濯正宗)の2つの酒造会社がありますが、明治ごろから酒造りをしているところはありません。
08:25
2020/08/04new

本庄の歴史~本庄のうつりかわり⑪

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 みなさん、おはようございます。梅雨も明けて、夏本番ですね。いい汗をかいていますか?
 今日は、深江、青木で盛んだった漁業についてお話ししますね。
 「エンヤコラ、エンヤコラ!」たくましい男たちが力いっぱい綱を引く。ひきよせられた地引き網の中できらきらと魚がおどる。イワシ、カレイ、タナゴにまじって、体に似合わず速い動きを見せるタコ。美しいピンクのはだをしたタイが勢いよくはねて、今日の漁はどうだろうかと見守る女性や子どもたちの間からどっと歓声が上がる。
 明治の終わりから大正のころ、本庄村は漁業がたいへん盛んでした。地引き網、打たせ網、手さぐり網、差目網などを使って魚をとっていました。イワシ、エビ、カレイ、タコ、カニ、スズキ、イカ、アナゴ、テンコチ、貝類などがとれました。地引き網でとる魚はカタクチイワシが主で、加工してダシジャコ(煮干し)、チリメンジャコとして出荷したそうです。明治42年(1909年)ごろから大正3年(1914年)にかけて、不漁が続き、水揚げが半分に減ったかと思うと、大正8年(1919年)には明治42年の20倍ものかせぎがあったりそたそうです。
 このころ青木、深江は浦といって、東は西宮川から、西は魚崎までの海岸を守る警備の役をしており、、漁業もこの範囲でしていたそうです。
 下の表を見てもわかるように、11の浦の中で、青木、深江の本庄浦は、須磨浦、鳴尾浦に次いで3番目に漁業をしている人が多く、地元の人たちばかりではなく岡山、広島県からも出稼ぎの人たちが多く来ていたということです。
<漁業の仕事をしていた人の数>

 神戸深江生活文化資料館には、昔から使われていた漁具がたくさん展示されています。あなごをとるモンドリカゴ、あさりなどをとるジョレン、生のイワシを入れて前後にかつぎ、てんびん棒で運ぶニナイカゴ、煮干しを袋に入れるときに使うジョウゴ、その他に、タコツボ、オンバ、セイロ、トウシ、マキアゲキ、イカリ、ブリカゴ、ムシロ、打たせ網の底につけた石のおもり、イカ釣り用具、タコ釣り用具、ケタ、漁船のカジ、大漁旗、網の修理用具などもあります。また、イワシを干している写真などもあり、これらの写真や漁具を見ていると、漁師さんたちのいせいのよい声や、たくさんの魚がとれてにぎわっている浜の様子が目に浮かんでくるようです。
<昔の漁具>

07:09
2020/08/01new

本庄の歴史~本庄のうつりかわり⑩

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 みなさん、こんにちは。昨日も夕方に雷が鳴り、強い雨が降りましたね。遊びに出ていて、雨に降られませんでしたか?今日は、雲もほとんどなくすばらしい天気ですね。外で遊ぶときは、たいへん熱いので、帽子と水筒を忘れずにね。
 今日からは、本庄村のくらしや仕事の様子などを伝えていきますね。
 明治のころは、農業、漁業、酒造業(日本酒づくり)そうめん、す、焼酎(しょうちゅう)づくりなどがありました。でも、それ以外は、交通が不便なためにあまり発達せず、大部分の人たちはは農業を主として生活していました。
 当時は、自分の田や畑で作物をつくっている自作農家と地主(農地を貸している人)さんから土地を借りて作物をつくる小作農家がありました。米と麦が多く作られ、その他には大豆とそら豆が作られていました。
 明治11年ごろの本庄村では、さかんに綿花が栽培されていました。外国から綿花が輸入されるようになると、紡績業(糸をつむぐ仕事)も盛んになってきました。ところが、外国の綿に比べて、日本の綿の品質があまりよくないことから、売れなくなっていきました。そこで、綿から、油菜(あぶらな)やさつまいもの栽培に代わっていきました。また、あかり用として油菜から種油が作られていましたが、しだいに売れなくなり、小麦やさつまいものさいばいをするようになっていきました。



 このころ、農具改良されたものはあまり多くありませんでした。その主なものは除草機、籾摺り臼(もみすりうす)、谷上鍬(たにがみくわ)などでした。
 深江生活文化資料館には、むかしから使われていた農具が展示されています。雁爪(がんづめ)、鋤(すき)、牛の鞍(うしのくら)、田植えの枠(わく)、カラサオ、八反取り(はったんどり)、除草機(じょそうき)、千歯こき、田げた、ツチノコ、千石(せんごく)おとし、唐箕(とうみ)、ふみ車などです。
11:58
2020/07/31

本庄の歴史~本庄のうつりかわり⑨

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 みなさん、おはようございます。昨日は雷と共にすごい量の雨が降りましたね。私は、深江南地域福祉センターへ用事で出かけた帰りに深江の歩道橋のところでこの大雨にあいました。すごい勢いだったので、雨が弱まるまで1時間ほど歩道橋の下で雨宿りをしていました。
<明治18年(1885年)ごろの本庄>





 上の地図は明治18年(1883年)ごろの村の様子を表したものです。
 まず、初めに海岸線近くに深江、青木、西青木の三つの村の名前が見えます。地図で見ると家の数も少なくそれぞれのかたまりに分かれていたことがわかります。そして、南の海岸線に沿って、大きな道が東西に横切っています。これが浜街道です。
明治になっても、この道が3つの村にとって大切な交通路であり、生活を支える道であったことは、他にこの村を結ぶ交通路の見当たらないことからもよくわかります。
 次に、村の北側の東西の道が打出で分かれた西国街道です。そして、西国街道と山の間に1本、やはり東西に道のようなものがついています。これは、国鉄(現JR西日本)で明治7年(1874年)に神戸・大阪間が開通しました。線路の記号が今と違っていますが、このころ、神戸・大阪間には住吉、西宮、尼崎の駅しかありませんでした。
 また、魚崎の横を流れる住吉川は天井川といい、川の部分が周りの土地よりも高くなっているために、線路は、川の下を通るめずらしい工事の仕方をしています。国鉄(現JR西日本)と浜街道の間には見わたすかぎりの田や畑が広がる農村で、村々の人々の仕事も農業をする人、漁業をする人がほとんどでした。
 西青木には2つの池があります。右側は今の小寄公園のある所で青木村の池、左側が今の福池小学校のある所で西青木村の池で、どちらも農業をするのに大切な池でした。西青木の村の池は福井という人が中心になってつくったといわれており、後に福井の池から福池という町名ができたそうです。
 水車小屋があり、住吉川の支流を利用して水車を回し、酒米をついたり、菜種油をしぼりました。青木や西青木の村の中には工場があり、おけ、酒、そうめんをつくっていました。
08:33
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