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2.アカシ象が含まれている地層
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鹿間博士が調査し、明石層群と名づけた西八木海岸の地層
紀川さんは一人で、ここから100点以上ものアカシ象の化石を掘り出した。
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アカシ象の化石が発見されたのは今回がはじめてではない。神戸市内では、これで4回目。明石の西八木海岸でも、いくつも発見されている。
今後も発見される可能性は高い。ではどこから出てくる可能性があるのだろうか。
これを考えるためには、このアカシ象を含む地層、大阪層群明石累層(るいそう)と呼ばれる一連の地層のことを明らかにしておかなければならない。
1936年東北大学の鹿間(しかま)博士は、明石市の林崎から東二見の海岸の崖に露出している地層を研究してアカシ象やシフゾウなどを発見すると共に、この地層を「明石層群」と名づけた。
1960年頃、市原実博士は、舞子・垂水付近もふくめて、この明石層群を調査して大阪の丘陵地に広く分布する大阪層群と同一の地層であることを明らかにして「大阪層群明石累層」と名づけなおした。
しかし当時、西神戸から明石にかけての丘陵地は雑木でおおわれていて地層の露出は少なかったため、地層の上下関係やつながりが完全にわかったわけではなかった。
昭和50年頃から神戸市の西部は学園都市やニュータウンの造成が盛んに行われ、地下の地層が大きく顔を出し、今までの未解決だった地層の上下関係やつながりがわかるようになってきた。
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西区、垂水区の丘陵には、大阪層群が分布している(写真左遠方の丘陵)
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この内容について私達は、「神戸の地層を読む1」(昭和58年)、「神戸の地層を読む2」(昭和62年)にまとめた。
アカシ象を含んでいる明石累層についての内容の概略は次のとおりである。
(1) 神戸の西部から明石市付近(播磨平野東部)の丘陵地に分布する第四紀の地層は、大きく二つの地層群にわけることができる。その上部(新しいもの)は高塚山粘土層、川西粘土層、赤坂粘土層などの海成粘土を含む地層(明美累層)で、第四紀更新世中期のものである。下部(古いもの)は、淡水成粘土層で特徴づけられる地層群(明石累層)で第三紀鮮新世(せんしんせい)後期から第四紀更新世前期のものである。
(2) 明美累層と明石累層との関係は不整合であり、二つの地層が堆積した年代の間には大きなギャップがある。
(3) 明石累層には少なくとも7枚の淡水成粘土層がはさまれており、しばしば火山灰層を伴なって連続して追跡できる。淡水成粘土層は、多くの場合、礫層、砂層、粘土層の組合せのサイクルの最上部をしめている。粘土層は次のサイクルの始まりである礫層によって、しばしば削り込みをうけており、地層の厚さの変化は激しい。
(4) 西八木海岸の林崎粘土層、屏風ヶ浦(びょうぶがうら)粘土層、舞子付近の大沢粘土層と名づけられた粘土層は、7枚の粘土層のうち下から1枚目と2枚目のものである。今回アカシ象の発見された地層は7枚のうち下から4枚目の粘土層中の地層である。
(5) 明石累層は、押部谷−木津−学園都市を結ぶほぼ南北の線より東側で、ぼう大な厚さを持つ礫層のみからなる地層に変化する。
(6) 明石累層は垂水区・西区の丘陵地をはじめ播磨平野の丘陸地に広く分布しているが、その広がりは単に播磨平野にとどまらず大阪平野、淡路島、香川県讃岐平野にも密接な関係のある地層がある。この地層の分布する範囲には「古瀬戸内湖」とも呼べる大きな淡水湖が存在したと考えられる。
(7) 垂水区・西区で明石累層の地層は、わずかに西へ傾いており、それは当時まだそれ程の高まりを持っていなかった六甲山地の上昇と関係がある。明石累層中のかなりの部分を占める礫層は徐々に上昇を始めていた六甲山地側から何回かにわけて下流の低地部へ供給されたものである。
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西神戸・明石地域の地質図
西区丘陵地の明石累層の地質柱状図
同柱状図作成地点
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