神戸の自然シリーズ1 六甲の断層をさぐる
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南の五助橋断層 4−東お多福山の麓の断層

 水晶谷を横切り、住吉川本流をこえた五助橋断層は、さらに東に延びて東お多福山の南斜面に顔をだす。この山の麓の平坦地を利用しているのが芦屋ゴルフ場であるが、それの拡張工事のさい、互助橋断層が見つかった (写真)。しかも、ここでは、約100万年前の地層である大阪層群をサンドイッチのょうに、基盤の花こう岩と衝き上げてきた花こう岩とがはさみこんでいた。


芦屋ゴルフ場にあらわれた五助橋断層(昭33撮).

芦屋ゴルフ場にあらわれた五助橋断層,古い岩石の花こう岩が新しい地層の大阪層群の上に,ゆるい角度で衝き上げている(藤河原図1971).


 この断層面の発見は、六甲山の形成過程を考える上で非常に重要な役割を果たしたのである。それは六甲山が上昇したひとつの時期を明かすのに役立っているが、それには、もう一ケ所、このゴルフ場の東端のトックリ谷で重要な発見がなされたこととかかわる。トックリ谷で砂や砂質粘土層に多くの植物化石、(メタセコイア、オオバラモミ、サワグルミ、ランダイスギ、コウヤマキ、ヒノキ、スギなど)が含まれていた。

 この植物化石は、次の二つの点がとくに重要である。第一はこういう組合せの植物は、メタセコイア植物群といわれ、今から約100万年前の日本の森林に生えていたもので、全体として温度気侯下に生育する種類が多い。しかし、ヒノキのようにやや寒冷な気候を好む植物も含まれていることを考えると、その当時は、温暖な気侯から寒冷気侯へと移る時期に当り、いわゆる第四紀の氷河期に入る直前の時期と思われる。植物の変遷の上からは、この時期をメタセコイア植物群消滅期といい、とくに重要な時代である。

 つぎに、このメタセコイア植物群と同じ組合せを示す植物化石群が、ここより250メートルも低い西宮ゴルフ場内の地層からも、発見されていることである。

 このような特徴をもっているトックリ谷の地層と同じ地続きで連続している芦屋ゴルフ場の地層に五助橋断層は衝きあげているのである。それは100万年前という時間の化石を大事に現在まで保護する役目も果たしてきたことになる。

 これらの事実をまとめると、
  1. 約100万年前、このゴルフ場一帯は、もっと低い所にあった。
  2. 約100万年前以後のある時期から六甲山は上昇をはじめて、西宮ゴルフ場あたりの平坦地よりも250メートル以上も高くなった。
  3. その後、五助橋断層の動きは以前にまして活発になり、断層の北寄りの六甲山主部はさらに上昇を続けた。
と、このような六甲山形成史の一コマを読みとることができる。

 このトックリ谷のメタセコイア植物化石群は、化石が過去の自然界の大きな事件を解決にみちびく重要な手がかりとなった好例である。しかし、さらに欲をいえば、メタセコイアの森が繁茂していた時期と、六甲山が上昇を開始した時期とを、10万年単位でもよいから、もっと細分化された時代を知りたいものである。

 ここで視点を、崖にあらわれた地質断面を手がかりにして地中をのぞいてきたこれまでの姿勢から、地表の起伏、つまり地形に移してみょう。

 六甲山の地形図をみてもよいし、現地から首をめぐらしてもよい、六甲山全体からみたこの場所の特徴を検討してみたい。

 芦屋ゴルフ場から奥地にかけて、非常になだらかな地形がつづいている。六甲の山中とは思えぬほどゆるやかな起伏である。かつて花原とよばれた芦屋ゴルフ場や、いまはすっかり住宅地に変わってしまった奥池の周辺には、その昔、水田が営まれ、松林の中に畑が点在するのどかな牧歌境であった。

500メートルの平坦面

芦屋ゴルフ場から奥池にかけて,なだらかな起伏がつづく.低地の平坦面をそのまま残しながら隆起 したことを示す地形である. (昭53撮).


 その景観は、麓の甲山周辺にひろがる丘陵地帯や芦屋山手のゆるやかな傾斜地にそっくりである。さきに 1.の項であげたように、何十万年か前の低地がそのまま上昇してきたことが、この地形からもうなずける。

 そして、この平坦地と芦屋山手との間には両地魂を境している芦屋断層があり、その高度差は250メートルある。それでは、六甲主峰と、この平坦面との関係はどうか。やはり前者に似た特徴が見られ、六甲山項部の800〜900メートルの平坦面との間は急峻な傾斜面であり、両者の境に五助橋断層がある。その高度差は、300〜400メートルに達する。

六甲山頂の平坦な地形

山腹の急斜面からは想像できないはど山頂は平らである.これも六甲が隆起してできた証拠と考えられている(昭53撮).


 六甲山地の主部を占めている東六甲では、山体は芦屋断層で250メートル上昇し、さらに五助橋断層で400メートル上昇していることになる。これは非常に大きい垂直変位量である。

 六甲山地は、山としてはその形成された地質学上の年代が新しく、若い山といえる。したがって、この五助橋断層と芦屋ゴルフ場の平坦地、さらには山麓部への急傾斜面と芦屋断層の関係など、地形と地質とがよく対応している。

 このような見方で六甲山地をみれば、ほかにもこの山の成立に関する謎解きのヒントを与えてくれる現象が目につく。

 たとえば、住吉川の流路である。表六甲を大阪湾に流れくだる川は、芦屋川にしても石屋川にしても、ほとんどの川は山に向かって真直ぐ食いこむ南北方向である。ところが住吉川だけが、中流の五助ダムのあたりから北東に向きがかわり、東お多福山の脇腹にあたる本庄橋付近まで、この北東−南西の流れをとる。ここから上流では、やっと南北方向になる。

 もし、住吉川沿いに渓流を歩き、本庄橋から一軒茶屋にいたる、通称、魚屋(トトヤ)道を登られた方なら、この川のねじれともいえる変わりものの流路をよくご存知であろう。そして、また、この流路の部分は五助橋断層の断層破砕帯を流れていることもおわかりいただけるものと思う。

 そして、断層と別れた地点から、川すじは北へ向う正常のコースをとる。川もまた、地表の弱体部を結んで流れているといえる。住吉川は断層谷である。

 さきに五助ダム付近の砂礫層に重さ10トンもあろうかと思われる巨石の含まれていることにふれた。これらの大石を運んできたのは、昭和13年の阪神大水害のような記嫁的な豪雨のとき発生した土石流である。住吉川の流域では、五助ダムから西滝ケ谷にわたる範囲、鴨子ケ原、自鶴美術館の下流の川沿いの市街地に多い。この土石流堆積物は、大月、五助橋断層の南側の低い所に異常に厚く堆積しており、両断層よりも北側の高い山地側にはほとんど見られない。これは両断層の活動によって山側が上昇し、そのため浸食作用をはげしくうけたことによる。六甲山地では断層は土石流の供給源でもある。

 東へ進む五助橋断層は、東お多福山の南麓から奥地の北方を通り、仁川上流の小笠峠にぬけ、宝塚市の東方で有馬−高槻構造線に合するようである。西へは、渦ケ森、鴨子ケ原で渦ケ森断層などの随伴断層を派生しながら神戸市街地を通り、海底につづく。

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