昭和42年(1967年)、山陽新幹線のトンネル工事が六甲山地の各地で着工されたころ、六甲にはトンネルが集中的に掘られていた。表のように六甲の長大トンネルは、ほとんど昭和37年から40年代の前半にかけて掘削されている。
それは、当時はわが国の経済が飛躍的に拡大発展をとげた時期で、交通機関はそのルートでは「より短く」、時間面では「より速く」と要求される時代背景下にあった。都市への急速な人口集中は、送水トンネルを六甲にもうがつようになった。
しかし、トンネル関係の技術者はたがいに情報を交換しあって、六甲トンネルを着工するころには、山としての六甲の難しさは、かなり詳しく技術者のノートに整理されていた。
鶴甲斜坑は、現在の灘区鶴甲団地の鶴甲会館の東側に坑口が昭和42年8月に設けられた。斜坑の長さは447メートルで本坑に接続する。
斜坑の地質は花こう岩であるが、地表の調査では大部分が風化し、粗い砂のような状態(真砂土(まさど)と呼ぶ)であった。斜坑中で大月、土橋断層と斜交して、通過する予測が立っていた。
また、背後には高さ700メートルの六甲山主部をひかえているため、斜坑を堀り進んでいけば、断層破砕帯付近では高圧の湧水とともに、大量の土砂が坑内に噴出することも予想されていた。したがって最悪の場合には、坑道が埋没するような不測の事態も充分考えられた。
坑口付近の湧水はほとんどなく、順調に工事が進行した。しかし、地質は、ところどころに粘土層をはさんだ花こう岩の破砕帯が大部分で、一見しまっているように見えるが、指で押したり、軽い打撃でかんたんに真砂土(まさど)化する状態で、毎分50〜60リットル程度の湧水はあった。
250メートルぐらいまでの経験では、粘土化しやすい岩石は白っばい半花こう岩と青緑色のヒン岩の岩脈である。この二種の岩脈は断層破砕帯に伴う傾向がみとめられ、今後の注意事項としてマークする必要が感じられた。破砕帯への接近と突発湧水の前駆現象の予報者としてである。
六甲トンネルの最初の試錬は、275メートル地点で発生した。昭和43年1月26日、午前4時30分、坑外は厳冬の未明であった。工事開始後5ケ月日である。
275メートル付近で大出水とともに土砂噴出が発生した。そのとき切端(きりは)の地質は、節理に粘土をはさむ程度の締った風化花こう岩で、出水直前の切端には、15メートル先まで進んでいた先進ボーリング孔から毎分25リットルの圧力のかからない湧水が認められる程度で、この斜坑としては、山は良好であった。
出水時の状況はこうである。1月26日の早朝、切端上部中央より約1.5メートル下った所から突如、毎分100リットルの出水が起こった。急いで切端面を補強し、約30分後に完了した。ホッと一息ついた途端、切端上部の矢先から毎分4トンの大量出水が土砂とともに噴きだした。せまい坑内はみるまに水没し、作業員は腰までつかって泥水の中を泳ぐようにして避難した。
その後、出水量は減ったものの、同日夕刻6時でも1.3トンの湧水が毎分続いていた。浸水は切端から70メートルに達した。
排水作業は、浸透水圧がかかり、第2次出水を連動させないように徐々に行ない、29日まで55メートル排水し、切端へ15メートルの位置まで回復した。
切端付近には大量の土砂が堆積し、支保工(しほこう)は、先端が圧迫された状態で変形していた。さらに流出土砂が切端より次第に坑口側に堆積するとともに水道が遮断され、出水個所が坑口に向って移動しつつ、土砂を伴った集中湧水が間けつ的に矢板(やいた)を突き破り、支保工を順次変形させた。
|