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地震と断層
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私の研究所の資料室には、文部省編集で昭和13年に発行された「尋常小学校理科書」がある。その第六学年に断層について次のような記述がある。
「地層には割目や断層がある。断層に変動の生ずるときには地震が起る。」
と書いてある。
現在という時点からみると、この考えは、ずいぶん先見の明があったように思える。というのは、杉村新氏(神戸大学)の最身の論文(1978)によれば、地震の震源がずれ変位(断層運動)であることがはっきりいえるようになったのは、ここ10年ほどの間であるからである。
この杉村論文は、断層の成因に関する最近の考えを平易に解説している大変興味深い論文である。この論文や、さきの藤田氏らの研究成果に基づいて、六甲の断層の成因を考えてみよう。
地震のとき、震央付近の地表に生じた断層を世界で最初に明らかにしたのは、濃尾地震(明治24年) のときの小藤文次郎の研究である。
この地震では、垂直ずれの最大は5〜6メートルに達し、水平ずれは左ずれで7〜8八メートルにもおよんだ。濃尾地震のこの断層は、根尾谷(ねおだに)断層の名で中学校理科教科書に引用されていることもあって広く知られている。
濃尾地震以後の地震でも、たとえば京都府の丹後半島でおきた丹後地震(昭和2年)では、北北西−南南東に走る左ずれの郷村(ごうむら)断層と、西南西−東北東に走る右ずれの山田断層との二つの断層ができた。
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郷村断層 左ずれ断層であることは道路が左にずれていることからよくわかる(昭42撮).
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鳥取地震(昭和18年)は右ずれ、福井地震(昭和23年) のときは左ずれの断層が発生した。
これらの断層で気づくことは、北東−南西方向の水平断層は右ずれであり、北西−南東方向のものは左ずれを示すことである。
このように、水平断層のずれの方向に規則性がみとめられるのはなぜだろうか。
この疑問にたいして、次に紹介する岩石破壊実験の結果が、謎を解く手がかりをあたえてくれる。この実験は、円筒形の岩石試料を封圧した状態におき、その軸方向から圧力をかけると、圧力の方向に対して斜めに割れ目ができる。そして、この斜めの割れ目は、圧力の方向には鋭角、それに直交する方向には鈍角を示す。
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岩石の圧縮実験でできた割れ目
(Paterson) |

右ずれと左ずれの図 |
岩石の圧縮実験の結果
岩石の割れ目は,圧力の方向に対して鋭角に,それに直交する方向に鈍角にできた.これは地震のときの水平ずれ 断層のずれの方向と一致する. |
ところで、この割れ目の方向は、さきに述べた地震のときの水平ずれの方向によく似ている。いま、この実験をかりに近畿地方や中部地方の地殻に対して行ない、東西方向に圧縮カを働かせると、濃尾、福井、丹後、鳥取地震のときの水平ずれのパターンが見られるはずである。
ここで、六甲山地の断層について、いまのような視点から検討を加えてみよう。
諏訪山、五助橋、大月の各断層は北東−南西方向に走る、右ずれの断層である。また、有野(ありの)断層や宝塚市の十万辻(じゅうまんつじ)断層は北西−南東方向にのびる、左ずれの水平断層である。
ただ、気にかかるのは、濃尾地震や丹後地震は、ここ100年間ばかりの間におきた地震であるのに対し、諏訪山や五助橋断層は数十万年もの遠い大昔から活動歴をもつ、息の長い断層である。その時間的経過の違いがあまりにも大きい。
しかし、これまでにくり返し述べたように、近畿地方には、200万年前から連続して東西方向の圧縮力が加えられてきていた証拠が、地質や地形の側から引きだされている。したがって、六甲山地も、この長い期間にわたって、ずーっと東西方向の圧縮力下におかれていたと考えてよさそうである。
このようにして、諏訪山、五助橋、大月の各断層の右ずれは説明できる。右ずれをする時、同時に北西側がさがる運動があったので、六甲山地は傾動地塊となったのであろう。
それでは、六甲山地はいつごろから上昇運動が活発化したのであろうか。
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六甲山地の傾動運動.東西方向よりの圧縮カは,六甲山地の北西側では下向きに,南東側では上向きに働き垂直ずれを起こすと同時に水平ずれも起こしている. |
六甲山地のまわりに分布している大阪層群の砂礫層に比較的大きい花こう岩の礫を含むものがあらわれはじめるのは、20万年ぐらい前の地層からである。このことは、礫の供給源である六甲山地の上昇量がこのころから大きくなりはじめたために、流水の浸食作用がはげしくなって大量に花こう岩の礫を流出したものによると考えられる。さらに、六甲山地周縁に発達する段丘の高度も東六甲山麓にあるものほど高位置にあり、六甲の傾動運動もこのころ(10数万年前)に活発化したことを物語る現象である。
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傾動地塊の六甲山地(神戸新聞社提供) |