神戸の自然シリーズ4 六甲の森と大阪湾の誕生
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−2.縄文海進のピークは6,000年前
(前ページの続き)


 さて、敏馬神社の波食崖を追って私たちは東の方へ、その跡をたどってみた。敏馬神社付近にみられるように、比高数メートルの丘をつくっている場合は、ひと目見て、旧海岸線の位置がわかる。しかし、こんな例は珍しく、たいていは、市街地の家の建てこんだ中に旧海岸線がかくされていて、歩いて確かめるより方法はない。この旧海岸線を縄文海岸線とよんでいる。この海岸線を探すのに、私たちは、神戸市整備公社が作製した2,500分の1地形図をつかった。まず見通しのよい南北方向の道路上に立ち、道路の傾斜の変換点をさがす。こういえば何だか難しそうだが、要するに坂道のはじまりを探せばよいのである。浜手から続いてきた平坦な道が、ゆるやかとはいえ、登り勾配にさしかかるところを見つければよい。そして、地形図でその高さを読む。

 ところが、数地点でこの縄文海岸探しをしているうちに、ひとつの規則性のあることに気づいた。それは、この地形の変換点の高さが、おしなべてほぼ4メートルの高さであることである。地形調査が進むにつれて、まず4メートル前後の地点を地形図上で探しておいて、その現地で確かめるという方法に調査法をかえた。

 私たちの調査は土曜日の午後から始めて、1回目は脇浜から住吉川まで進み、次の週には芦屋川まで歩き、神戸市街地東部はこれで終えた。この縄文海岸線は敏馬神社のように比高6メートルの崖になって残っているところもあれば、肉眼では全く区別がつかない兵庫区のような旧海岸もある。

 この縄文海岸線による地形変換点が4メートルを示す事実は、尼崎市栗山で観察した海成層の上限の高さ3メートルとは1メートルの差がある。これは、現在の海岸を歩けば、すぐ理解されることであるが、波が打ちあげた砂浜は、大潮のときの満潮面よりも高い所にある。その砂は台風などのときに打ち上げられた砂であって、砂は海成砂であってもこの高さは海面の高さをあらわすものではない。それぞれの海岸の地形によってその高さはまちまちであろうが、さきの尼崎市栗山の例を参考にして、縄文海進で海面が上昇していた高さは、約3メートル前後ではなかろうかと思っている。

 後で、縄文海進の研究史でもふれるが、東木竜七氏が大正15年、関東平野の貝塚分布から推定した奥東京湾の論文が発表された頃には、10メートルの高さまで海面が上昇したという研究者もいた。しかし、その後、明確な証拠を提示した論文のないまま、研究者の間で、縄文海進の海面上昇の5メートル説がひろがった。これは、たぶん、5メートルぐらいだろうという考えがだんだんにひろがった結果と思われる。しかし、神戸市の場合には、どうも5メートルには到達していない証拠のほうが多い。もし、5メートル説が正しければ、地形図で5メートルの等高線を拾っていけば、そのまま、縄文海岸線の位置に結びつくのであるから、これぐらい楽な復元作業はないのである。

 私たちが、この縄文海岸線の復元に関心をもっていたころ、全くちがった分野でこの4メートル線を描いている人がいた。その人は岩見義男さんという神戸市都市整備公社におられる土木技術者である。岩見さんは長年の土木行政にたずさわった経験を生かして、現在、神戸市の地盤図を作製中である。この作業は、地表下20メートルまでぐらいの比較的浅い範囲の地質の構成を明らかにするために、5,000本をこえるボーリング資料を整理することからはじまった。これだけ尨大な量の情報を整理していく過程で、岩見さんはいくつかの興味ある現象を見つけだしている。この4メートル線もそのひとつであって、岩見さんの所見は、この線を境にして、陸側は地盤はかたいが、この線から海側にかけては軟弱地盤が多い。しかも昭和13年の阪神大水害の覆水地域や、ジエーン台風の浸水域を調べると、4メートル線以南に集中している。この4メートル線以南は災害に対して常に警戒しなければならない地帯だと岩見さんは力説する。私たちと岩見さんとは全くちがった視点から、神戸の海岸低地帯をみてきたのであるが、その行きついた所が、期せずして一致したのである。岩見さんの4メートル線は、神戸の地盤図では、地球科学の用語を用いて縄文海岸線の名でよばれることになった。

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