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6.海面の変化と海岸線の復元
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大阪湾や播磨灘の沿岸で観察した、かつての海面を示す潮間帯の貝類群集を含む地層の高さを、年代順に線でむすべば、海面が上昇してきたようすを再現することができる。
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| (Maeda, 1977) |
その作業は、横軸に年代をとり、縦軸には高さをとった図上に、それぞれの試料の14C年代測定値をおき、それらの点を連続した線でむすぶ簡単なものである。上図はそのようにしてえがいた大阪湾および播磨灘の海面の動きを示す線である。このような図を海面変化曲線という。
この図をみれば、大阪湾や播磨灘では、約10,000年前から、海面が最高に高くなったほぼ6,000年前までの4,000年間に、海面は約34メートル上昇したことがわかる。また、1,000年ごとの海面の位置を求めると次のようになる。
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10,000年前 |
海面下 |
31メートル |
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9,000年前 |
海面下 |
25メートル |
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8,000年前 |
海面下 |
18メートル |
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7,000年前 |
海面下 |
5メートル |
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6,000年前 |
海面上 |
3メートル |
また、1,000年間の平均上昇速度では、8,000年前から7,000年前の間に、ほぼ13メートルも上昇しており、その速度がもっとも大きく、1年に1.3センチの速さである。
しかし、この海面変化曲線は、海面の上下の動きはあらわしているが、横へのひろがり、つまり陸地への進入のようすは表現されていない。もし、1,000年間隔でもよいから海岸線の位置が再現できれば、縄文人たちの生活空間を推定したり、彼らの移動ルートを考えたりする考古学に重要な情報が提供できる。これまでに、このような古い時期の海岸線の復元を試みた例は少ない。
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大阪湾および播磨灘の海成完新世層の14C年代 (前田保夫,1980)
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これには、ボーリング調査による地層の観察記録をみればよい。ボーリングはふつう直径8センチぐらいの穴を地中深くに掘りすすみ、地下のようすをさぐっている。その調査記録の一部分を上にあげたが、地層を構成している堆積物の種類や、色調、貝化石の有無などを観察している。この図では、海面下18メートルから貝化石が出はじめている。これは、海がこの場所に進入してきたときの海岸線をあらわしている。その18メートルをさきの海水面変化曲線上におくと、ちょうど8,000年前になる。このように海成層の下限の深さを海面変化曲線上におけば、自動的にその年代が求められる。
さいわい、大阪をはじめ阪神間の臨海平野部には、ビルをはじめ各種の建造物をつくるために数多くのボーリング調査が行われている。そして大阪市では、昭和41年に、それらにもとづいてつくられた大阪地盤図が出版されている。神戸市でも作製したことは、すでに紹介した。
その地盤図を利用して書きあげたのが、下の1,000年単位であらわした海岸線の分布である。これをみると、想像もできないような複雑な海岸線をえがきながら現在にいたったことがわかる。とくに大阪平野では、その変容がいちじるしい。9,000年前には、古淀川の川口と思われるあたりに広い砂浜が形成されていた。これは港大橋の地層では、さきに述べた海面下28メートルで観察した厚さ1メートルの河成砂にあたる。やはり、このころは、規模の小さい海面低下か海面の停滞期があり、川口に砂が堆積したものであろう。
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古大阪湾の海岸線の復元(数字は千年前) (前田保夫,1980) |
8,000年代の海は、古淀川の川すじをさかのばり、吹田市付近にまで到達しているが、大阪城のある上町台地を東へまわりこんだところで、古大和川の川すじに入る海とに分かれている。そして、その後は各地に小さい島を点在した小形の松島のような景色をつくりながら、どんどん陸地に入っている。
とくに8,000年前と7,000年前の海岸線との幅がひろいことは、この1,000年間の海面上昇が速く、海がぐんとひろがったことをあらわしている。そして6,000年前には生駒山麓にまで海がのびている。
このような奥大阪湾ともいうべき古河内湾には、ひろい外洋に生息するクジラが餌を追って入りこんできていたことを物語る、クジラの化石が発見されており、その14C年代は4,760年±150年前と測定された。
この縄文海進は、神戸においてはどこまできていたか。
ポートアイランドの南端の大阪湾に面した高い防波堤下の地層をみると、海成層は海面下30メートルではじまる。さきの淀川口で確かめられた10,000年前の海は、神戸ではすでにポートアイランド南端にとどいていたのである。ところがポートアイランドの西端から和田岬にかけて、海成層のはじまりは浅くなり25メートル前後を示す。その当時、和田岬のあたりは、砂やピートの層がひろく露出していて、ここが海におおわれるのは、9,000年前になってからである。9,000年前の海岸線は、和田岬から東へは、大きく湾入して、ポートアイランドのほば真中を東西方向に横切るようにのびる。
8,000年前には海は、海面下18〜20メートルあたりまで高まってきた。神戸ではその深さで海成層がはじまるのは、ポートターミナルのある第四突堤から、東部第一工区、同第二工区の南のへりにつづく。西部の海岸では、長田港では、海成層は海面下19メートルからはじまり、ここへ8,000年前の海がとどいたことを示している。さきのポートターミナルとこの長田港とをつなぐ海岸線をボーリング調査結果を手がかりに探すと、築島から高松にかけてのびていたことがわかった。7,000年前には、海面下5メートルあたりまで海面は上昇してきていた。この時期の海岸線は、神戸市街地の東部では、ほぼ現在の海岸線下に達していたが、西部ではかなり内陸部に入り、国鉄兵庫駅のあたりにおよんでいた。
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| 国鉄元町駅と神戸駅間の北側に残る縄文海岸の波食崖(花隈駐車場) |
黒丸が撮影地点
2万5千分の1地形図「神戸首部」 |
6,000年前はすでに紹介したように現在の海面を3メートル上回る高さにまで水面があがった。東灘区の深江や魚崎などでは、国道二号線の手前までが海におおわれていた。御影から石屋川をへて脇浜にかけては、ほぼ国道43号線沿いに縄文海岸線はのびていた。三宮から元町にかけては、国鉄東海道線の南沿いのところまで海がせまっていたが、神戸駅のあたりから西へは、国鉄線をこえて内陸部にすすみ、鷹取駅の西方あたりから現在の海岸線に近くなる。
裏表紙には、塩屋沖からみた神戸市街地の写真をのせたが長田、兵庫区ではぐんと内陸部へ海が進入してきていたこの縄文海岸線を想定していただきたい。この縄文海進は5,000年前までは、海面の動きに大きい変動はなく、3メートル前後の高さをもった時期がはぼ1,000年間はつづいた。その後は、1〜2メートル程度の変動を数回くりかえしながら、現在の高さに落ちつくようになる。とくに2,000年前ごろ(キリスト誕生のころ)は、現在よりも海面は約2メートル低下していたと思われる証拠が多く、わが国では、この時期を弥生小海退といい、ヨーロッパではローマ小海退とよんでいる。2,000年後、現在の高さに海面が回復してきた過程については定説がないのが現状である。じょじょに高さをましてきたのか、あるいは小さい振幅の上下の動きをくりかえす過程で今の高さに落ちついたかは、今後解決されるものと思う。
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手前の低い畑と右上部の高い畑との間に縄文海岸の波食崖が残っている.(深江北町)
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黒丸が写真撮影地
2万5千分の1地形図「西宮」
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