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生田川から稲妻坂へ |
心臓破りの∨字谷、天王川越え
菊水山から呼吸を整えつつ東へ向うが間もなく城ヶ越の下りにかかる。大規模な砕石工事で生じた急斜面を避けて道は斜めにとるが、405mから250mまで一気に急降下する。有馬街道をまたぐしゃれたデザインの天王吊椅からあおぎみても鍋蓋山は見えない。それほどの急坂を登らねばならない。鍋蓋山の西の肩まで200mの標高差がある。文字通りのX字谷である。どうしてこんな急傾斜のダウン・アップの地形ができたのだろうか。
それは六甲山の上昇に対する天王川の浸食力の戦いの結果なのである。図で説明すると、もとの地形は花こう岩の上に神戸層群が重なった傾斜のほとんどない平坦な地形があり、南北方向に流れる小さい川があった。およそ100万年前から強くなった水平圧縮の力を受けて六甲山地は上昇をはじめた。上昇につれて川も激しく川底を浸食する(下刻作用)。
ところが上昇のスピードが大きいために、川は左右の岸を浸食する(側刻作用)余裕がなく、もっぱら下刻作用に集中せざるを得ない。その結果、平坦な時期の川すじをそのまま変えることなく下刻しつづけて現在にいたったのである。このような古い流路をそのまま変えずに山脈を断ち切るように流れる川を先行河川という。何れも険しい峡谷をつくるのが特徴である。
もし、上昇(隆起)量に浸食量が負けると、ここでは川は鈴蘭台方面へ、傾動するゆるやかな斜面側に流れを変更する大勢順応型の河川になる。天王川も生田(布引)川も初志を曲げずに大勢にうちかった抵抗の川である。三田から宝塚に流れる武庫川の峡谷もこのような経緯でできた流れで、先行河川の例として地形の教科書によく引用される。
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再度山から生田川の市ヶ原におり、ここで∪ターンをして再び山に向う。
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| 市ヶ原の集落を通り抜け、稲妻坂から天狗道へ入る尾根に出る。 |
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道標にしたがって全山縦走最長の登りにかかる。 |
| 尾根から振り向けば、22年前の昭和42年、多くの人命を奪った山崩れのあとが斜面に溝状に残る。 |
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