ところで、高塚山海進によってできた高塚山の海とはどんな形をしていたのでしょうか。
いままではある地点で地層を下から上へ、その変化をみてきました。それは時間とともにその土地がどのように変化したかを見てきたわけです。
こんどは地層を横に追いかけて、高塚山の海の平面的な広がりを考えてみようというわけです。高塚山粘土層と同じ地層がどこまで分布しているかがわかれば、当時の海岸線がわかるはずです。
私たちは、高塚山粘土層と直接つながっていると確認できる海成層を10数カ所で観察することができました。
それぞれの地点で地層のようす、厚さ、重なり方を記録した図を柱状図といいます。その柱状図をならべたのが図19ですが、これをみると地層が横にどのように変化していくかがわかります。高塚山粘土層は南に追うとだんだん薄くなり、やがて粒のそろった砂層に変化します。また東および北に追うと薄くなり、傾斜した垂水礫層と呼ばれるこれより古い地層にぶつかっています。西に追うとだんだん厚くなり、伊川谷北高校のふきんでは2枚に、高塚山トンネル西口ふきんでは3枚にわかれてきます。
このように高塚山粘土層とそれと同じときにたまったと思われる砂層の分布から高塚山の海の海岸線を推定したのが、図21です。
このように高塚山の海は明石海峡から北にはいりこんだ入江で現在の明石川と垂水の町を流れる福田川にはさまれた地域をおおっていたこと、北は伊川台の丘陵や櫨谷(はせたに)・平野(ひらの)の丘陵はおおわなかったことがわかります。また、現在の北舞子の舞子墓園のふきんには花こう岩の小さな丘がありますが、ここは当時、小さな島か海につきだした岬であったと考えられます。
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