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2.次々に出てくる化石骨 −全身骨格出土の予感−
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前日、そのままにしてきた骨を私たち以外の誰かが見つけて掘り出してしまってはいないだろうか、そんな心配をしながら翌10月8日、再び伊川谷を訪ねた。
きれいなラミナ(地層のもよう)をもつ化石を含んだ地層はシルトから細粒の砂の粒度を持つ地層である。骨は表土から約4mの地層の底に近いところに顔を出している。地層が表面を雨水にけずりとられたため骨はわずかに突き出て、その表面に骨特有の組織が明瞭に認められる。
昨日見つけた骨の周辺を少し堀ってみることにした。非常に小さなものだが骨らしきものがいくつもある。それは極めてもろいものだ。どうやら骨は顔を出している二つだけではなさそうだ。
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とりあえず一つの骨だけを掘り出すことにした。骨は一部だけが顔をのぞかせている。どんな形をしたどれだけの大きさのものかを見きわめる必要がある。用意した柄つき針でさぐるようにしながら砂をとりのぞいていく。二つの骨が重なっているようだ。一方は中央にわずかに高まりを持つ左右対称の骨。その下に幅3cmほどの平たい棒状のもの。骨はもろく針があたると壊れた表面ががどんどんはがれてしまう。接着剤ではがれるのを止めながら作業を続けた。表面が出たらその骨をふくむ地層を20cmぐらいのブロックにする作業である。朝9時すぎから作業をはじめてブロックとしてとり出せる状態にまでなったのは午後3時近くであった。
いよいよブロックをとりはずす。ドライバーをうちこみ両手でかかえるようにしてブロックを持ち上げた時、思わぬことが起った。下になっていた棒状の骨は予想以上に長いものだった。骨はブロックについてきた部分と地層中に残されたものに分断されてしまったのだ。しかも、割れ口は粉々にくだけ飛び散ってしまった。
まだまだ出てきそうな骨を掘り出す作業は、骨を固めてからにしなければならない。この日は作業を中断してその方法を調べてから本格的に発掘するための体制を検討することとした。
この造成地の工事と管理をしているのは神戸市の開発局である。開発局の西神工事事務所を訪ねて調査、発掘のための協力・援助を依頼をしなければならない。工事課長の田村和雄さんは心良く協力の約束と現場への立入りを許可して下さった。
兵庫県埋蔵文化財調査事務所を訪れ骨を固化させる方法を相談に行った。考古学の発掘で人骨や獣骨が出てきたとき、それを取り上げる方法があるはずだからだ。調査事務所の加古さんは骨を固化させる薬品を紹介して下さった。
京都大学の石田志朗助教授にも連絡をとったところさっそく現地にきてもらうことができた。本格的な発掘のための方法や考え方を指導してもらうことになった。
10月10日、神戸の自然研究グループの先生方の力をかりて、予備的な発掘を行なった。その結果、はじめ取り出した骨の奥にも多くの骨を発見。それを薬品で固めながら掘り進み、4日間で20個ほどの骨を堀り出した。
ところで、この骨は何の骨だろうか。たぶんアカシ象のものだろうとは思うものの確かなことはわからない。アカシ象の研究者である大阪自然史博物館の樽野(たるの)博幸さんに鑑定してもらうために、いくつかの骨を持って大阪を訪れたのは10月14日のことだった。
樽野さんは、その数個の骨を見て、
「アカシ象の骨に違いないでしょう。これは胸椎(きょうつい)の一部。これは肋骨(ろっこつ)、これは踵骨(しょうこつ)......」と説明したあと、昭和35年から41年にわたって明石の西八木海岸で掘り出された紀川標本を持ってきて、その比較をして次のように言われた。
「この博物館にある全身骨格の復元模型は、紀川標本をもとにしたものです。それと比べると、かなり大きいものと言えます。紀川標本にはない立方骨があります。アカシ象の骨格の発見としては紀川標本以来のことになりそうですね。時間はかかっても慎重に発堀してほしいですね。」
紀川標本とは、昭和35年当時中学生だった紀川晴彦さん(現在此花高校)が一人で6年間かかって掘り出したアカシ象の骨の化石のことである。その標本は、体の部位のわかるものだけで、70点、骨片も含めると100点を超す。これをもとにした復元模型は大阪自然史博物館に展示されている。この標本は立方骨など手足の部分はなかったが、今回はこの部分があり他の部分も出てくる可能性があるという点で樽野さんは注目したのだった。
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予備発掘で掘り出した骨
| 1 |
胸椎の一部 |
6 |
中位肋骨 |
| 2 |
立方骨 |
7 |
中足骨 |
| 3 |
踵骨 |
8 |
肋骨骨頭 |
| 4 |
第一肋骨 |
9 |
四肢骨骨頭 |
| 5 |
前位肋骨 |
10 |
不明 |
上の写真の部位 |
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