神戸の自然シリーズ1 六甲の断層をさぐる
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北の六甲断層帯 3−空からみた有馬−高槻構造帯

 それでは、白水峡で500メートルの幅の規模をもつこの大破砕帯は、さらに東へ西へどう延びているのだろうか。

 昭和53年(1978年)の秋も深まった11月下旬、私は空から六甲山の断層を撮るべく、ヘリコプターで六甲を飛んだ。

 空から断層がつくりだした地形をカメラに収めようというのだから、条件としては一にも二にも快晴であり、遠望のきく天侯が要求される。9月中旬以降、ずっと待ち続けていたのがこの日である。

 ポートアイランドの南の突端にあるヘリポートには、私が到着したとき、すでに神戸市消防局のヘリコプターが爆音をとどろかせて待っていてくれた。子どもたちに人気のある大型のトンボのオニヤンマの胴を、さらにずんぐりふくらませ、しっぽをぐっと縮めたようなヘリコプターだ。思ったより小さい。が、耳をつんざくような物すごい爆音でうなっている。

 ヘリコプターの飛行音を下界で聞くバラバラ、ポラボラなんて悠長なものではない。グワーっと腹の底までこたえる轟音をあたりに吐き散らして、大きな4枚羽根のメインロータが空気をぶった斬っている。

 機内の4つの席は、前後に2つずつならび、タクシーのシートをひと回り狭くしたスペースしかない。ベルトで体をシートに固定し、両耳をヘッドセットでおおい、桂機長と隣の森島さんとの通話テストをする。そして、写真を撮影する側の窓を枠ごとはずし、3台のカメラを足許に並べて準備完了。

 撮影地を記入した地図を狭い境内にひろげ、太陽光線とカメラの角度、撮影高度などを打ち合す。白水峡の上空では、琵琶湖は見えなくてもよいから、京都盆地の東山達蜂が遠望できる高度までのぼって欲しいと頼む。テキパキと要領よく、無駄のない機長の質問にくらべ、やや興奮気味で不得要領な説明をくり返すのが淋しい。

 ふわりと飛び立ったと思う間もなく、ヘリコプターはぐんぐん高度を上げ、限下の神戸大橋はみるみる小さくなっていく。

 六甲山南麓町市街地と山地とを横一文字の直線で境している諏訪山断層(表紙、もくじカット)を撮り、断層谷の住吉川をうつして、機は山項をこえ、目的地の白水峡に向った。

 300メートルの上空からみた白水峡は、ちょうど小型の噴火口を連想させる。谷の頭といわれる小川の最奥部では谷筋は放射状にやつでの葉先をひろげたように山に食いこんでいくのが普通の形であって、谷頭浸食という。白水峡の谷はそのタイプそのままで、上空からみると、浸食されて削り落とされた垂直の崖がまるく弧を描くかのように並んでいる。

六甲側から見た蓬莱峡

白水峡と同じような崩壊地形が残っている。中央の白線は有馬一宝塚間のバス道路で,左よりの平らな丘は上ケ平といい,段丘面である。西宮−船坂道路より撮影(昭45撮)。


 眼を東にやると、扇をひろげた形に畑が並ぶ船坂の村が美しい。船坂のすぐ東に、白水峡そっくりの崩壊地形がある。これは蓬莱(ほうらい)峡で、裏六甲随一の奇勝の地としてハイカー達に親しまれているところである。断層破砕帯特有の地形、一見ゴツゴツした岩場に見えるが、その実はざっくりした脆い地質の模様が機上からも、はっきり識別できる。

 そして、この幅をもった凹地形は太多田川沿いにのび、生瀬(なまぜ)を通り、宝塚市の中山、雲雀ヶ丘の南端をかすめて行く。猪名川(いながわ)をこえて、さらに北摂山地の南縁の池田市街を通過して、千里丘陵と箕面との低地帯に続く。その先は糸をひいたように高槻方面に延びているのが確かめられた。

 この東西方向に連続している落ち込み帯は、さきに見た900キロメートルの高空からラソドサットにキャッチされている、それにピタリと一致する。これは白水峡で観察したあの大きい断層破砕帯の延長なのである。地質学上は有馬−高槻構造帯と名づけられた、れっきとした大断層である。

 高槻から京都まで見とおせたとき、ヘリコプターの高度は1,300メートルであった。写真撮影のため常時開放の窓から、寒気が遠慮なく流れ込み、窓に近い右腕はその寒さに刺すような痛みを覚えてきた。


西宮市生瀬(なまぜ)の六甲断層


蓬莱峡から太多田川を通って東へ向う六甲断層は生瀬とウイルキンソンの工場との間に断層面が顔を出す(昭42撮).
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