神戸の自然シリーズ4 六甲の森と大阪湾の誕生
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 神戸にすむ私たちにとって六甲山とその緑の木立は、毎日の生活の一部といえるぐらい多くの市民に親しまれている。六甲の山肌をびっしりと埋めている森林は、太古の昔から今のままのたたずまいであったのだろうか。

 この本では、1万年という、私たちの日常生活ではとうてい経験しえない時間尺度で、神戸の自然の変化のあとをたどってみたい。それは、神戸の現在の自然がかたちづくられてきた長い道程を再現することであり、私たちの町の自然史の編集でもある。

 過ぎ去った自然のようすを復元するとき、地層や化石は重要な手がかりになるというが、具体的にはどのように活用されるのだろうか。この編集作業の手はじめに、垂水区玉津町に建設中の玉津環境センターの敷地にあらわれた地層と、ポートアイランドの海底下に横たわる地層をとりあげてみょう。



1.玉津でみつかった海の地層

 昭和53年4月のある日、教育研究所に、神戸市役所で埋蔵文化財を担当しておられる喜谷美宣さんが、玉津の工事場で掘りだされていたという貝の化石をもってあらわれた。

 玉津の工事場というのは、垂水区玉津森友1丁目に建設中の玉津環境センターのことである。ここでは、本格的な工事にさきだって行われた試掘調査で、奈良時代の郡衙(ぐんが)遺跡が見つかり、吉田南遺跡と名づけられて発掘調査が行われていた。

 のちにこの遺跡から日本最古の橋桁が発見されて全国的に有名になったところでもある。

 おりから来所中だった東京大学の鎮西清高さんは、喜谷さんのもちこんだ化石を一目見るなり、

 「ヒメシラトリガイとイボウミニナですね。これは、海がぐーんと入りこんでいる内湾の奥まった泥地にすんでいる貝です。前田さん、この化石の地質時代はいつですか」

 さすがに、貝化石の専門家である。鎮西さんは、玉津の地名をきいただけでは、それがどこにあるのかわかるはずのない東京人のくせに、この貝がかつて生息していた海の環境をピタリといいあてた。

 鎮西さんの質問に、私は、

 「たぶん、6,000年前の縄文(じょうもん)海進の海にすんでいた貝でしょうが、化石化がすすんで、化石が硬くなっているのが気になりますね。ひょっとしたら、もう一時代古い数万年前のものかも知れませんね」

 といささか歯切れの悪い返事をした。


神戸市玉津環境センターは海岸から2キロメートルもはなれている.


 数日ののち、喜谷さんの案内で現地を訪ねた。遺跡の発掘現場のすぐわきに小高く盛られた土盛りがいくつもあり、そこに貝化石が散らばっている。送電塔の移転で、6メートルばかり掘り下げたところ、貝化石がたくさん出てきたという。が、その現場はすでに埋め戻され、もう跡形もない。けれども、三カ月のちには、再びこの探さまで掘る工事がすすめられるという。

 この工事場の海面からの高さは、6メートルである。そうすると、ヒメシラトリガイの化石はちょうど0メートルの深さにあったことになる。やはり、最初の予想通り、この化石は、6,000年前のものだ。縄文海進の海は、明石海岸から2キロも離れた、ここまで入りこんでいたのだ。

 8月上旬に再び現地を訪ねたとき、掘削工事は大幅にすすみ、50メートルプールの五つや六つは横に並べてすっぽり入るぐらいの広さで掘りこまれていた。7メートルの深さにそろった真新しい人工の崖には、数枚の地層の断面が見事に続いている(口絵カラー写真)。黒みがかった青灰色のねばっこい粘土層に、貝殻の断面が、まるで白い小石を散りばめたように入っている。ハイガイ、オキシジミ、マガキなど大型の化石もあるが、ヒメシラトリガイとイボウミニナとが圧倒的に多い。

 地層の重なりのようすは、口絵カラー写真の下にスケッチを示したが、上部と下部に二分される。その境はほぼ2メートルの高さである。上部は、黒っぽい腐植層を3枚はさんでいる砂や粘土でこれは湿地帯に堆積した地層で、厚さは約3メートルである。下部は主に海に堆積した粘土層で、その中には多くの貝化石が含まれている。地層の厚さは約6メートルある。

 ところで、これらの地層から、どんなことが読みとれるか。この地層の中にすぎさった大昔の自然界のできごとを物語ってくれる証人たちは何通りぐらいいるのだろうか。それでは私たちの手で掘りだしてきた証人たちに順を追って登場してもらおう。

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