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2.海の年代を示す放射性炭素
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かつてここに海が入ってきていたことは、ヒメシラトリガイをはじめ、海に生息する貝化石の多いことが何よりの証拠で、疑う余地のない事実である。それでは海であった時期は今から何年ぐらい前のことなのか。私たちは一番はやくこの場所にすみついた貝の化石を探した。それは海の地層がつもりはじめたところに残っているにちがいない。マイナス3.1メートルで見つかったハイガイが一番下にあり、それよりも深いところでは貝殻は溶けてしまっていて、地層に貝の形だけしか残っていない。さらにマイナス4メートルの深さには、波うちぎわにすんでいたと思われるカニなどの這い跡(生痕)が認められるが、もはや貝化石は形すらも認められない。この生痕化石が、海の進入のはじまったことを示す最初の証拠である。しかし、この生痕化石では、何年前かを知る年代測定はできない。放射性炭素による年代測定には、この場合、貝殻がいちばんだ。さきのハイガイを学習院大学の年代測定室へ早速送った。数カ月のちに、測定者の木越邦彦さんから、6840年±115年前という年代測定値がとどけられた。ここへ海が進入してきたのは、およそ7,000年前ということになる。
放射性炭素による年代測定法は、炭素同位体法、炭素14法、14C法ともいわれ数万年前までの年代測定によく用いられている。1984年、アメリカのリビーによって開発された年代測定法で、その原理は次のようである。
大気中に存在する二酸化炭素の中には、微量であるが一定の割合で炭素14が含まれている。その炭素14は半減期5,570年でチッ素14にかわっていく。生物が死んでガス交換をしなくなると、体内に入っていた炭素14は、さきの半減期で減少していく。化石に残る炭素14を測定すれば、その生物の死後の経過年数が求められる。
わが国でも学習院大学、日本アイソトープ協会をはじめ、14C法の年代測定装置をそなえた研究機関は10近くもあり、これまでに測定した試料の件数も1万件をこえている。神戸市の地層や化石も、巻末にあげたように約30件近い試料が測定されており、神戸の自然環境が形成されてきた時間経過を知る上で重要な役割りを果たしている。もし14C法による年代測定法が開発されていなければ、この本に述べるような内容の研究は不可能である。
さて、7,000年前に明石川の川ぞいに奥深く入りこんできた海は、どんな海だったのだろうか。まず貝化石の生息環境にもとづいて推定してみよう。ここでもっとも多く採集できた二枚貝のヒメシラトリガイと、巻貝のイボウミニナとはそれぞれどんな深さのところに生息しているのか。
◆ ヒメシラトリガイ |
内湾の潮間帯付近にすむ。殻はやや小さく左殻は右殻よりわずかに大きく、後端は右の方へ曲がっている。殻頂付近は少し黄色みがかっているが、他は白く灰色の殻皮でおおわれている。後背は直線的である。内面は白く、外套湾入は左右の殻で異なり、右殻は前方1/4の所で合一しているが、左殻では、前後の閉殻筋痕が連絡している。殻長3.5センチ、殻高3センチ、日本各地に分布する。
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◆ イボウミニナ |
内湾の泥の多い干潟に多量に群棲(ぐんせい)する。塔形で殻頂はとがる。螺層に3本の螺肋があってそれが縦肋でとぎられ、間隔のあいた横長の、かつ比較的鋭いいぼ状になっている。体層殻底の細い螺肋も同様の傾向にある。殻高3センチ、殻径1.5センチ、分布、北海道以南、熱帯太平洋。
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玉津環境センターからは、このほか、二枚貝ではハイガイ、マガキ、オキシジミ、カガミガイ、巻貝ではカワアイ、ヘナタリ等が採集できた。どれも潮の満ち干のある干潟の泥のところにすむ種で、当時の玉津は明石の海岸から探くはいりこんだ入江であったことは確実である。鎮西さんの予測は見事に的中していた。
これらの化石は、どれも現在の大阪湾や瀬戸内海に生息していることから、当時の海の水温などは、いまの海とほとんど同じであった。
玉津環境センターでは海の地層はマイナス4.0メートルからはじまり、プラス2.2メートルまでつづき、約6メートルの厚さがある。これだけの地層は何年間に堆積したのだろうか。マイナス1.3メートルで採集した貝は6,400年前を示したが、この海成層の上限近くのプラス1.8メートルで採集した木片の14C年代は3,810年±250年前であった。
この木片の年代をそのまま受け入れると、玉津には、海は約3,000年間はいってきていたことになる。ところがプラス2.5メートルの腐植土の年代は4,470年±160年前と測定されていて、さきの木片の年代よりも古い。また、高砂市の塩田(しおた)遺跡の海成層のプラス0.4メートルで採集したハイガイの年代は5,800年±110年前であり、大阪湾沿岸や日本各地の海成層の上限は六千年前後を示す年代が多い。このようにみると、3,810年の年代は、何かの原因で実際の年代よりも著しく新しい測定値が出たものと思われる。その原因のひとつとして思いあたることは、私たちがこの木片を採集したのは、地層の断面があらわれてから1年2か月もたっていることである。この間に木片の中にカビなどが生え、新しい炭素(モダン・カーボン)が入りこんだ可能性が大きい。このような場合は、年代測定値は新しく出るケースが多いという。
なぜ、1年以上も木片を採集しなかったのか。その理由は、海成層の場合、貝化石を試料に年代測定を行なったほうが、よい測定値が得られるので、ここでも調査に訪れるたびに貝化石をさがしていたのであるが発見できなかったことによる。近く着工される玉津環境センターの新しい敷地では、モダン・カーボンの影響のない試料で、海成層の上限の年代を測定する予定である。
このようないきさつで、玉津の海の最後の時期を示す直接の年代は得られなかったが、その時期は他地域の測定値からみて、ほぼ6,000年〜5,500年前ごろである。玉津の海は約1,000年間つづいたのである。考古学では、この時期は縄文時代の早期末から前期にあたる。また、現在の海面を上まわる高さにまで海面が高まった現象を、わが国では、それが縄文時代におきた海面上昇(海進)であることから縄文海進とよんでいる。
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