神戸の自然シリーズ21 六甲山はどうしてできたか
  前ページへ 目次へ 次ページへ


 約120万年前、この淡水域に海が進入してくるが、この頃から六甲山地誕生につながる六甲変動の時期に入る。

六甲変動を起こした水平圧縮

 最初の海がしりぞいて陸化したのち、2回目の海が大阪湾にもどってくるが、このときの海にできた地層にはメタセコイアの化石が含まれ、うすいピンク色の火山灰(ピンク・タフ)が挟まれその年代はおよそ100万年前を示すなど、他の地層との区別のつきやすい特徴をもっている。地質学の研究者はこの海成層をMa1とよんでいる。このMa1は現在の大阪湾の周辺の丘陵のみならず、奈良盆地や京都南部にまでひろがる広い分布をしている。六甲山地では西宮市の甲山のまわり、芦屋市奥池西のゴルフ場、神戸市東灘区の鴨子ヶ原、長田区の丸山など六甲山地南麓に分布する。

 このように、Ma1が現在の大阪湾をはるかに上回る広域分布をする原因は、当時の生駒山地や六甲山地などが今のように高くなく、低い丘陵状の小島であったため海(Ma1)の進入を防ぐ障壁の役目をしていなかったからである。

 この水深20m前後の内湾底に形成された広域分布層のMa1が、100万年後の現在、大阪湾から六甲山地にかけて生じた地殻変動の様子を物語る貴重な鍵層の役目を果していることに気づく。

 六甲全山縦走を経験された読者は、このMa1層が六甲山地が上昇していく記録者としての役割を果たしていることに気づいておられるであろう。東六甲の4段の階段地形には最後部の800m級の山頂平坦面にはMa1層は分布しないが、500m級の奥池の平坦地、250m級の鷲林寺の平坦地100m級の上ヶ原にはそれぞれMa1層が確かめられている。

 Ma1層の分布は100万年間の六甲山地の成長過程を的確に物語っている。平坦地と斜面がセットになって断層で境されて、山頂から300mの高度差、250m、150mと垂直変位量の違いが階段地形から読みとれる。


大阪空港上空からみた東六甲

六甲山地東側の階段地形と断層(藤田和夫 1989)


 それでは上ヶ原の平坦地から大阪平野の地下にもぐっていくMa1層を追っていくと平野の中心部では、どれぐらいの探さの所でMa1層をつかむことができるのか。大阪市内の天保山近くの国際見本市会場での深層ボーリングで地下500mにMa1層のあることがわかった。

 上昇する六甲山地では500mの高さにあり、沈降する大阪湾側には500mの探さにあり、両者の高低差は1000mである。かつて同じ内海の同じレベルに生まれた海成層が100万年後にこれだけの変動量の差となってあらわれたのである。

 それではこのような地殻変動はどんなメカニズムで発生したのであろうか。六甲山地を押しあげ、大阪堆積盆を沈降させたものは何か。山は隆起し、平野や盆地は沈降するといううねりの地形配列は他にもないだろうか。奈良盆地と生駒山地、大阪も詳しくみれば生駒山地と河内盆地、上町台地と大阪湾のようにうねりの山と谷が南北方向に配置されている。それらの地下構造をみると、山地と低地との境は六甲の場合と同じように逆断層がある。


大阪盆地群とその断面(藤田和夫 1989)


 断層は大地に長期間にわたって圧力がかかり、それによって生ずる歪みが蓄積され、ある限界に達すると大地をつくっている岩石が破壊されて割れ目ができる。その破壊のときの揺れが地震で、割れ目が地表にあらわれたのが断層である。

 六甲山地にはこれまでみてきたように断層は多いが、それだけ強い圧力がかかっていたことをあらわしている。その圧力の方向は上に述べたように東西方向の水平圧縮と考えられる。しかもMa1層の変位からわかるように、東西の水平圧縮力は100万年以後強くなった。六甲山地の上昇量の増大期が水平圧縮力の強くなった時期であるとみるならば、Ma1層よりも後にできたMa6層やMa7層になると、六甲山地から供給された花こう岩の礫が地層中に急増するのが認められる。この時期に六甲山地が大きく上昇し、そのために表面が激しく浸食された結果、山麓の海に大量の砂礫が流れこみ、礫層がつくられたのである。その時期はほぼ50万年前からであることが火山灰の噴出年代から推測される。

 六甲山地の主な断層を示すと図のようになるが、断層の活動によって花こう岩が破壊されて断層粘土が生じるような断層は、数百年、数千年に一度という規模の大きい地震によってできたものである。そのとき生じた数mの垂直のずれや、横ずれの変位量が積み重なって、われわれが今みている六甲山地に成長してきたのである。

 この冊子では六甲山麓に発達する20数万年前にできた高位段丘、12万5千年前に形成された中位段丘などが示す比較的新しい時期の六甲山地の動きについて、まだ情報不足のせいもあって触れることができなかった。機会を得れば再度挑戦したいと思っている。

 最後に本書に掲載した挿図の使用を御快諾下さった恩師藤田和夫博士、新修神戸市史編集室、神戸の自然研究グループの先生方、神戸市立教育研究所に深く感謝します。

前ページへ 目次へ 次ページへ